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①『縄文特別アマチュア局の開局』

縄文特別局 「8J7JOMON」8月1日から運用開始。

「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産登録記念のJARL特別局(北東北)「8J7JOMON」が、青森市での運用を皮切りに始まった。

運用期間は12月31日迄。

世界遺産対象の遺跡が所在する青森・岩手・秋田県の市と町を中心にリレー運用。

交信相手局にはJARL経由でオリジナルのQSLカードを発行する。

この特別局は世界遺産登録を広く伝えるとともに、縄文遺跡と縄文文化に対する理解を深め、更にはアマチュア無線の活性化を目的とし、関係支部が連携して取り組む。

北海道でも同様に 8J7JOMONが運用される。

2つの特別局の活動を盛り上げる為、合同で「縄文アワード(仮称)」も企画。詳細は担当するJARL渡島檜山支部のホームページを。


②『東北大学名誉教授・田中英道監修

オピニオン誌「Renaissance」vol.7(500円)』

卑弥呼、埴輪、縄文人...

教科書から抹殺された日本史

3つの謎

ダイレクト出版

日本人の起源の“謎”

近年、最新のDNA分析によって、日本人のルーツとされる縄文人のDNAが、周辺アジアの民族とは“殆んど一致しない”という事実が明らかにされた。

これまでの通説では、中国・朝鮮・東南アジアのいずれかの民族が縄文人の起源と考えられていたが、それらとは全く異なるタイプの民族が既に日本に存在していたのだ...

では、いったい縄文人とは何者だったのか? そして、我々日本人の祖先はどこからやって来て、どのような変化を遂げてきたのか?

古代史に残された数々の謎...

それらを解き明かす“鍵”とは・・

これらの謎の答えは、従来の歴史教科書や、文献だけに頼る研究からは決して見つからない。

日本の古代史に残された「謎」の数々。それらを解き明かす鍵とはいったい何なのか?

「西洋美術史研究の第一人者」と呼ばれ、50年以上、歴史研究の最前線で評価を受ける田中教授は、こう語る。

“教科書では、縄文から弥生時代迄、日本人は原始的な生活を営んでいた。そこに大陸や朝鮮半島から稲作や文化が伝えられ、日本はようやく発展の糸口をつかみ、日本という国家が形成された。という歴史だけが当たり前のように教えられている。 

しかし、文献だけに頼る従来の研究ではなく、先人達が残した文化遺産に光を当てると… 我々がこれまで信じさせられてきたのとは全く違う。壮大なストーリーが見えてきた。

元来、日本という国は外敵がやってこない島国であり、「信頼」を土台に共同体をつくってきました。

よって、絶えず民族が移動し、争いごとの絶えない西洋や大陸とは違い、文字を必要としなかったのである。

よって、当時の先人達の生活ぶりや、思いを読み取るには、神社や文化遺産といった形あるものの解読が必須になってくる。

多くの学者は、文献だけに頼ることにより、この大切なポイントを見落としてしまう。

更に残念なことに、美術の知識がない為、いざ実物を目にしても、そこから何を読み取ればいいのか?がわからないのである。

「日本には文明がなかった」・・そう言われることがあるが、それはあり得ない。

遺跡を紐解けば、日本最初の国家「ヤマト政権」よりも、卑弥呼が居たとされる時代よりも遥か昔から、日本では高度な文明が栄えていた。

その中心は、関東・東北であり、そこには大きな”国”があったのだ…”

日本の古代史に残された「謎」の数々は、他にも・・・

大陸の何倍もの旧石器時代の遺跡が残る… 中国・韓国よりも先に人類が存在… 古代の人々は、何故こぞって日本を目指したのか?「日本」という名前に隠された秘密とは…

“世界四大文明”説は中国人ジャーナリストの創作?「文明の衝突」著者が明かした八大文明説。

世界で最も早い定住生活… 土器から読み解く縄文人の素顔とは…

「東西神話の類似性」日本古代史に見え隠れする“ある重要民族”の存在…

「実は世界各地で出土する土偶」なぜ異形が多いのか? 信仰の対象としての“土偶”に込められた秘密…

「巨大なお墓が残したメッセージ」実はピラミッドより大きい仁徳天皇陵… 先人たちは我々に何を伝えたかったのか? 

日本神話で「神々が住まう場所」と記される「高天原」。

“天”を表すという通説は真実か?…

「遺跡の数」「神話」「地名」・・奇妙な符合をたどれば、地上の「高天原」が見えてくる…

実は世界の八大文明のひとつとされ(「文明の衝突」サミュエル・ハンチントンが提唱)他国と比べても、日本ほど神秘的でユニークな歴史を持つ国。天皇を中心に、脈々と文化・伝統が受け継がれてきた国は他にはない。

しかし、従来の文字だけの研究を元にした歴史教育では、その素晴らしさに気付くことができない… そんな状況では、当然ながら多くの日本人が自国に誇りを持つことは難しい。略。


③『岡本太郎氏の先見性』

縄文と岡本太郎

岡本太郎略歴

1911年、川崎市生まれ。岡本一平・かの子を父母に持つ。

東京美術学校(現・東京藝術大学)中退後、渡欧。パリ大学のマルセル・モース門下で民族学を修める。

中略。

国内外で旺盛な創作活動を行う傍ら、1952年2月、縄文土器に出会った衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みづゑ』に発表。その後、『芸術新潮』の「日本再発見―芸術風土記」連載をきっかけに、列島各地のフィールドワークを精力的に行い、独自の視点による著作を多数発表。

1970年の日本万博では、テーマ館展示プロデューサーを務め、《太陽の塔》を制作する傍ら、メキシコに断続的に渡り、《明日の神話》を制作した。近年、壁画が日本に移送され修復されたことは記憶に新しい。1996年1月に死去。


④『コラムNo.1岡本太郎と縄文』

京都造形芸術大学非常勤講師 石井 匠氏

縄文文化というと、今では誰もが疑うことなく日本文化の源流だと思っている。ところが、つい50年前までは日本美術史に縄文は存在しなかった。縄文の美を再発見し、日本美術史を書き換えたのは岡本太郎である。というと、嘘のような話に聞えるかもしれないが、それまで、縄文について美術的な視点からの発言は誰もしていなく、太郎が1952年に『みずゑ』誌上で「四次元との対話――縄文土器論」を発表する迄、縄文土器や土偶は美術品ではなく工芸品という扱いを受けていた。

岡本太郎と縄文の出会いは、東京国立博物館の一室。考古学の遺物として陳列されていた異様な形の縄文土器に偶然出くわして、彼はこう叫んだ。

「なんだこれは!」

岡本太郎はパリのソルボンヌ大学で、フランス民族学の父とも称されるマルセル・モース門下で民族学を修めており、芸術家であり民族学者でもある太郎が、火焔型土器の写真を載せた「縄文土器論」で提示したのは、考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして、縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈である。

それが結果的に各方面に大きな衝撃を与え、建築やデザイン界を中心に縄文ブームが沸き起こった。

そして、弥生土器や埴輪を始まりとする「正統な」日本の伝統をくつがえし、以後、原始美術として縄文土器は美術書の巻頭を飾るようになり、日本美術史が書き換えられたのだ。今に続く縄文ブームの火付け役は、岡本太郎なのであった。

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